芥川賞作家でもある著者が京都天龍寺で過ごした3年間の修行の日々――。
本書はその「ベラボーな生活」を軽妙な筆致で描いたエッセー集。
塀の外からは窺い知れない禅道場の生活をユーモラスに綴った本書は、朝日新聞のPR誌「暮らしの風」連載中から人気が高く、すぐ単行本化されたが、文庫版も含めて長らく品切れだった。その待望の復刻版。
・道場入門者の約半数がひと月以内に逃げだす!?
・失敗しないように前もって教えるのは「親切」ではない!?
・無視されても三年間挨拶をつづけた結果起こった「深い変化」とは?
・食べきれないほどのご馳走が並ぶ「托鉢点心」は極楽でもあるが、同時に地獄!?
・一週間ほとんど眠らずに坐禅しつづける「臘八大摂心」という一大関門
・禅の坊さんがほぼ100%ウドン好きである意外な理由
・参禅のときの老師ほど怖い人はいない
(などなど)
復刊にあたって、好評だった熊井正氏のイラストを掲載。解説は著者と同じ時期に天龍寺で修行されていた方広寺派管長の安永祖堂老師。本文には丁寧な加筆・修正を施し、新たに「復刻版のためのあとがき」を加えた。
【※以下にエッセーを一部抜粋】
庭詰め
入学試験も終わり、そろそろ入学式を待つ季節だが、禅の専門道場の入門試験は三月末にピークを迎える。そのやり方がまたベラボーなのでご紹介したい。
入門志願者は道場の玄関で「たのみましょう」と声を張り上げ、そして上がり框に両手をつき、剃りたての頭をその手につけて坐り込む。「どうれ」と出てきた係の先輩僧は低頭した先に置かれた「入門願書」を手にとって読みはするが必ず断ることになっている。理由はいろいろつけていいが、大抵は「この道場は現在でも食料に事欠くありさま」だとか「もっと佳い道場があるはずだ」というものだ。
そう言われて引き下がっては話にならないから、玄関先で低頭したまま「坐り込み」をするのだが、それはまる二日も続くのだから堪らない。
私がこの「庭詰め」を始めたのは三月二十七日だったが、それは酷く寒い日だった。斜めに捻れたままの体は次第に固く強張り、慣れない着物の足許を寒風が吹き抜ける。
突然背後から大声で「まだいたのか、この莫迦もん」と怒鳴られ、そして後ろへ引っ張られた。玄関の外で「出てけ」と大声で言ったあと、彼は声をひそめた。「二十分くらい休憩して、また始めなさい」。
「追い出し」と呼ばれる実に慈悲深い追放が午前と午後に一回ずつあり、また夜は眠らせてもらえるし、食事も汁とご飯だけだが食べさせてもらえる。しかしそれは気楽な時間ではない。私はこの二日だけで便がすっかり胆汁色になった。友人が庭詰めしたまま飲めと、紙パックの日本酒と特製の長いストローを餞別にくれたが、そんなもののあったことも忘れていたくらいである。