なぜこれほどまでに、日本はデュシャンを好んできたのか。
本書は、1920年代から80年代における日本の美術界および文化批評の場でのデュシャン受容の様態を確認し、日本の前衛美術や批評言語がどのように自らの方向性を見出してきたかを分析・考察する。「芸術家」としてのデュシャン理解の多様性と揺らぎを、キュビスム、ダダ、シュルレアリスムを辿りながら確認し、「反芸術家」としてのデュシャン像が、瀧口修造や東野芳明の言説を介して日本現代美術に与えた影響の本質を抉り出し、「超芸術家」としてのデュシャンが、無限のテクストを産出しつつ、いかに"日本的なるもの"へと帰着していくかを浮き彫りにする。実物が眼前にないままに、その影だけを追いながら作品と言説が積み上がる日本のデュシャン受容の様相は、西洋化と土着化とに分裂しながら突き進んだ日本現代美術の姿を映す鏡となる。